みなさん、こんにちは!Miraist編集部です。
今回Miraist Womanでご紹介するのは、江頭知華子さんです。
知華子さんは、大学でニューヨークに留学したことをきっかけに、アメリカ・イギリス・香港等、様々な国で生活し、現在はインドで初となる日系インターナショナルスクール Japan International Academy を経営しております。
経営者としての顔も持ちながら、二人のお子さんを持つお母さんでもあります。
そんな知華子さんに今まで築いてきたキャリアや、その時々の決断や想い、そしてインドで運営されている Japan International Academy についてお話を伺ったロングインタビュー、ぜひご一読下さい!
幼少期から外の世界と触れ合う
―小さい頃はどんな子供だったのでしょうか。
子供の頃は内気で恥ずかしがり屋な、いつも親の後ろに隠れているような子でしたね。当時、研究職の父親が仕事で海外に行ったり、海外の人を呼び寄せることが時々あり、外国の方と交流する機会がありました。
また、母が国際交流が好きで、ホームステイの受け入れをしていました。アメリカ人、ドイツ人、フランス人、イギリス人…いろいろな国の人を受け入れていましたね。
―それは貴重な経験ですね!小さい頃は恥ずかしがり屋だったとのことですが、うまくコミュニケーションは取れましたか?
当時は英語はできなかったのですが、一緒に遊んだり、買い物に行ったりしていました。どうやってコミュニケーションをしていたかは覚えていないのですが(笑)色んな国の人と関わることで「いつか大きくなったら、私の家に来てくれた人たちのお家に行ってみたい」と思うようになりました。
そこから、自然と外の世界に目を向けるようになったのだと思います。幼少期のそのような経験から、中学生の時、気づいたら英語は得意科目になっていました。いずれは英語を使って仕事をしたいなと思うようにもなりました。

高校生の時に、自ら志願しドイツへホームステイ
元々恥ずかしがり屋な性格でありながらも、どんどん外の世界に興味が湧いてきたと話していた知華子さんは、高校生の時にある決断をします。自ら見つけたドイツへの短期留学プログラムに応募したのです。
ホームステイに来ていたドイツ人の子がすごく好きで、いつかドイツに行ってみたいと思い、独学でドイツ語をNHKのテレビとラジオの語学講座を視聴していました。
当時、高校生が短期留学生としてドイツに行けるプログラムをたまたま見つけたんです。そのプログラムは世界各国から100人程の学生がドイツに集まり交流を深めるというもので、日本人の枠は6人ありました。その試験に合格するため、TV講座、ラジオ講座で勉強したことを復習したり、本を買ったりして独学を続けていました。
―結果はどうだったのですか?
無事に合格することができ、ドイツに行けることになりました!
―すごいですね!江頭さんが合格できた秘訣はどんなところにあると思いますか?
高校生なので、ドイツ語を勉強したといっても学習経験は浅いし、ネイティブみたいに話せるわけではありません。プログラムに参加するための試験では、主に潜在的なコミュニケーション力が試されたのだと思います。
また、私は関西に住んでいたのですが、関西には高校生が満足にドイツ語を習える環境ってないんですね。すべて自分で探して環境を作りました。試験が開催されている関東の高校は、カリキュラムの一環としてドイツ語が選択できる学校もあり、当時、独学でドイツ語を勉強し、関西からわざわざ受験しに来た私は、他の高校生とは明らかに状況が違っていてとてもユニークに見えたのだと思います(笑)
―不利な環境も、自分の売りとしてチャンスに変えていくことは素晴らしいですね。実際に行ったドイツはどうでしたか?
とにかく楽しかったことを覚えています。私の人生のターニングポイントと言っても過言ではありません。世界から集まった100人の中には、戦争をしている国から来た子もいました。今までの自分が知らなかった世界が、一気に現実味を帯びました。
言葉にすると簡単ですが、世界って本当に広くて、自分の知らない世界がまだまだあると感じたのです。当時知り合った子たちは、いまはFacebookでつながっています。本当にすごい世の中になったなと実感します。私はこの留学の経験を通じて、海外で働きたいという思いが一層強くなりました。


高校ドイツ留学中、仲良くなったイスラエルの子と。
大阪外国語大学国際関係学科へ進学
―大学は、大阪外国語大学へ進学されたんですよね。
はい。将来、国際機関や外交官として働きたいと思っていた私は、大学では国際法を学んでいました。
国際法の勉強を通じ「平和とは何か」と考えることが多くありました。国際法というルールがありながらも、平和を創る法律ではないのです。そこにもどかしさを感じることもありましたね。
―同じ学科にはどのような人がいたのでしょうか?
留学志望や国際開発援助をしたいというようなガッツのある人が多かったと思います。実際に「模擬国連」というものに参加し、国連の総会をシミュレーションした疑似総会を開催したりしました。
学部終了後はロンドン大学で一年勉強し、夢であった国際機関での就職を目指し、友人からの刺激を受け、今度はアメリカで勉強しようと決めました。

「国連のあるアメリカに行きたい」23歳で渡米
―小さい頃からの目標だった国際機関での活躍を夢見て、23歳でニューヨークに渡った知華子さん。ニューヨークでの学生時代はどんなものだったのでしょうか?
ニューヨーク大学の大学院で国際政治学を専攻しました。街の雰囲気は、とにかくエネルギーがすごかったです。
今まで京都から出たことがなかった私は、高層ビルがあるだけでびっくり。いろんな人種の人がいて、どこを見渡しても、肌の色も目の色も全然違います。イギリスにいたときは自分が「アジア人」だと意識するできごとが多くあったのですが、ニューヨークにはありませんでした。
―やはり勉強は大変でしたか?
はい、朝から晩まで一日中図書館にこもっていましたね。覚悟はしていたのですが、それでも大変で。プレゼンテーションの前の日は、どんなに練習しても不安で夜も眠れなかったことを覚えています。遊ぶ暇も全然ありませんでしたね。ニューヨークは物価が高く、家賃も高かったため、薄暗いアパートで一人でひっそり生活していました。こう話すと、全然楽しくない学生時代のように聞こえると思うのですが(笑)
ニューヨークの街は、いつ歩いても本当に楽しかったです。周りは映画の中で見るような世界で、気分転換で街に出るだけですごく元気が出ました!私はクラシック音楽が大好きだったため、たまにご褒美としてコンサートにいくことがありました。クラシックの殿堂といわれるコンサートホールがあり、私にとって最高の場所でした。

海外就職。ニューヨークでの社会人時代
―ニューヨーク大学院を無事卒業した知華子さんは、その後どのようなファーストキャリアを築いたのでしょうか?
日経新聞社の現地採用として、ニューヨークに就職しました。
学生時代にしていた朝日新聞社のインターンでの経験を認めてもらい、日経新聞社に就職することができました。ニューヨークが拠点だったため、金融関連の情報を扱っていました。常に締切に追われる毎日で、最初はストレスが多かったですが、やりがいはありましたね。
―言い難い話かもしれませんが、もともと目標としていた国際機関への就職は検討しなかったのでしょうか。
目の前でやっていた新聞社の仕事が面白かったので、そのまま新聞社を選びました。実は就職活動のときに、ちょっとした挫折感を味わったのが、国際機関を選ばなかった正直な理由です。周りは英語に何の問題もない能力の高い人ばかりで。私は帰国子女ではなく、日本生まれ日本育ちの純日本人だったので、最後まで語学力の劣等感が抜けませんでした。国連の採用選抜試験は厳しく、他の国際機関でも私の経歴では、書類通過すらも難しかったのです。
理想はあったのですが、どこか現実も見ないといけないなと考えたり。でも、夢は変わってしまっても、それはそれで次の道が開けてくるんですよね。
新聞社でのインターンシップの活動を通じ、新しく日本で働く話もいただくこともありました。一つ一つのことを全力でやっているうちに、自分の活躍できる場所は見えてくると感じました。
卒業後、日本に帰る選択肢も考えていましたが、結局ニューヨークを選びました。社会人2年目の時には、学生時代からのインド人の彼と結婚することになり、私の人生は、また大きく変わっていったのです。

インド人パートナーに出会い、結婚
―インド人の彼との出会い、すごく興味があります…!
彼とは何かの機会で会うようになりました。彼はなぜか日本語を知っていて、最初私に隠していたのです(笑)たまたま一緒に日本のドラマを見ていた時に、急に笑いだして「え、これ理解できるの?」という展開になり、彼が日本語を理解できることが発覚しました。
メールや電話での連絡は頻繁にくれる人だったのですが、私は当時、就職活動に追われていて、恋愛にあまり積極的にはなれませんでした。就職活動が進んで、日本かニューヨークか選ばないと行けない時期だったのですが、そんな時に私は「彼と一緒にいたい」と強く思ったのです。実際にニューヨークでの就職を決めることができたので、彼との関係も続けることができました。
―彼と結婚をしようと思ったのは?
優しいところと、家族をとても大切にするところに惹かれたからですね。社会人2年目、27歳での結婚は、仕事も結構大変な時期だと思っていました。結婚はもう少しキャリアを積んでからでもいいかな?と思っていたところもあったのですが、ニューヨークにいた日本の先輩たちからは「結婚は勢いだ!」と教えてもらい、また彼の結婚に対する真剣な気持ちもあり、このタイミングを選びました。この後、私が28歳の時に彼の日本駐在が決まり、東京に戻ってくることになったのです。
―知華子さんも、ニューヨークを離れることにしたのですか?
そうです。私も日本に戻ることになりました。
―働き始めて2年ほどで、ニューヨークの仕事を辞めてしまうことに葛藤はありませんでしたか?
私にとって、彼と離れ離れになることが考えられなかったのです。そのために就職活動も、ニューヨークの仕事を選んできました。仕事を辞める時に、あまり抵抗がなかったのは、金融関係の記事を書いていて正直「このままでいいのかな?」と悩むことがあったからだと思います。「本当にやりたいたかったことをやれていない苛立ち」を感じるときもありました。
キャリアをずっと積んでいきたいという気持ち、一方で専業主婦として育ててくれた母のようになりたいと思う気持ち、そしてここまでずっと海外の活躍を応援してくれた家族に対し、ここで日本に帰ったら申し訳ないという気持ちがありました。
今振り返ると、その時その時で考えた決断をして、この道までたどり着きましたが、当時は決断をした後もいろいろ悩み、葛藤と戦っていたと思いますね。
子育てはイギリスで。本当に大切な幼児教育とは何かを考える
一度東京に戻り、短期間の香港駐在も経験するものの、仕事の関係で再度ニューヨークに戻り生活をスタート。ニューヨークで日本語教師としてキャリアをスタートした知華子さんは、同時期にグリーンカードを取得しました。
その後ニューヨークで出産をし、1年後には夫の海外転職をきっかけに、イギリスに転居することに。
―イギリスでの生活はどうでしたか?
友達をつくるまでは大変でしたが、イギリスのほうが環境的には落ち着いていました。ニューヨークでは、仕事の業種や家庭環境など共通点がないと仲良くできない雰囲気がありましたから。その点、イギリスは地域によるのかもしれませんが、全体的に人があたたかかったような気がします。
イギリスには教会や地域センター主催の子育てサークルがたくさんあり、幼稚園に行くまではそこで現地のお母さんや子供たちと交流していました。「社会が一緒に子育てをする」という印象です。教育費も幼稚園から負担してくれますし、行政サービスはすごく良かったです。
育児中は目の前のことにすごく必死でしたが、「いずれこの子が大きくなったら、また働きに行かないといけない」という考えもあり、だからこそ今、すごく子供にいい環境を与えてあげたいと強く思っていました。
そこで私自身が「子供の教育」に関する研究をするようになりました。情操教育にはどういうものがいいのか、どういう幼稚園がいいのか。とにかく育児書や幼児教育書を読みあさっていましたね。もともと私は研究家気質なところがあって(笑)当時は子供に関する研究にハマっていました。
―知華子さんのお子さんに対する強い愛情が伝わってきますね!イギリスの幼稚園ではどんな風に過ごされていたのでしょうか?
私は家の近くにあるあらゆる幼稚園を見てまわったのですが、幼稚園によって教育方針も雰囲気も全然違うことに気づいたんですね。
そこで、とてもすてきな幼稚園に巡り合うことができました。小さな幼稚園だったのですが、とてもチャーミングなおばあちゃん園長先生がいらっしゃって。当時、息子は英語が話せませんでした。それを心配した先生方から日本語を少し教えてと頼まれ、簡単な指示用語をメモして渡すと、わざわざそれを書き直して壁に貼ってくれたのです。一人ひとりの個性を尊重してくれる環境がとても好きでした。
もう一つおもしろいエピソードがあって、はじめ息子は集団生活に慣れずに泣きわめいていたんです。その姿を見て、私もどうしていいかわからない気持ちになりました。そうしたら「お母さんも一緒に入りなさい」と言ってくれて、朝の9時から12時まで私も一緒に子どもたちと遊ぶことになったのです。親をそこまで園に受け入れてくれる先生もなかなかいないと思います。
「お母さんが心配していることは子供に伝わるから、それが一番良くない」と言ってくれました。まあ、しばらくして息子が慣れてきたら私は必要なくなって、逆にこっちが少し悲しくなったくらいです(笑)この幼稚園を見て、最初に集団生活する場なら、絶対にこういう環境が良いなと強く感じるようになったのです。

インドで起業をするチャンスが巡ってくる
―その後どのようなきっかけでインドに渡ったのですか?
2人の子供に恵まれ、順調にイギリスで生活をする中、夫の中では「これから伸びるマーケットでビジネスに挑戦したい」という気持ちが芽生えていたようです。心のなかで、ずっと離れて暮らしていたインドの両親のことも気にしていたんだと思います。
私も、2人の子供におじいちゃんとおばあちゃんの思い出を作ってあげたいという気持ちもありました。そのようなきっかけで、イギリスからニューヨークに一旦戻り、準備期間を経て家族でインドに行く決意をしたのです。
―インドに来るときは抵抗はありませんでしたか?
最初は少しありましたね。特に子供の教育が心配でした。子供をアメリカ、イギリスで育ててきたので、インドでも変わらずインターナショナルスクールに通わせようかと考えていました。同時に「小さい時に日本語を教えてあげたい」という気持ちもありました。
英語はインドにいれば、自然と覚えていけるので、低学年のうちは日本語学校に通い、日本の精神を学んでいくことが大切ではないかと思い、最終的にインドでは日本人学校に通うことになりました。
―実際に日本人学校の様子はいかがでしたか。
日本人学校に行ったのは本当に良かったです。教育の質も高く、先生方のプロ意識がすごく高いという印象があります。
一方で、私の子供はインド人と日本人のハーフであるため、上の子が幼稚園時代はやんちゃな子たちに「インド人、インド人!」とからかわれることがありました。インドという多様性のある国に住んでいて、こういう言葉が出てくることに私はびっくりしましたが、子どもたちは、決して差別的な意味で、悪気を持って言っているのではないのです。
子どもたちが意識せず、こういう言葉を発してしまうのは、子どもたちの取り巻く環境をつくる私達大人の言動・行動が原因なんだろうとその時感じました。
例えば「もう、インド人はいつも時間に遅れてくる!」「インド人の車の運転はひどい!」「インド人は順番ぬかしする人が多いんだよね」等、ついつい、お母さんたちの井戸端会議で、日常のドタバタをこんな風に言ってしまうことがあります。私も同じように感じることはありますし、いわゆる「インドのあるある」を話すことは全く問題ないのです。
しかし、それが子どもたちの耳に届いてしまうと、子どもたちに誤った認識を与えてしまうきっかけになってしまうことがあります。意外と子どもたちって、大人の話をよく聴いているんですよね。「インド人は…」「インドって…」 その言葉は教育となり、子供は真っ直ぐに受け取ります。
日本人環境でしか育っていないと、何が差別になるかわからない、何が人を傷つけるかわかっていない。文化や人種の違いに普段から焦点をあてることがないから、そうした発言、思考が生まれてしまうのかもしれません。

日系初のインターナショナル幼稚園「Japan International Academy」を設立
―2017年4月、知華子さんはインド初の日系インターナショナル幼稚園Japan International Academyを立ち上げました。Japan International Academy は、どのような特徴がある幼稚園なのでしょうか。
一言で言うと、私が今まで研究し、実際に体験してきた幼稚園に関する考え方で、一番いいことろをぎゅーっと凝縮して作った幼稚園です!
私は、世界に誇るべき日本の思いやりの心、礼儀正しさ、道徳観は小さい頃に受ける教育がつくりあげる考えています。そのため、普段のしつけや絵本の読み聞かせ、子供たちとの対話を通じ、日本の道徳感を小さい頃から身につけてもらおうと思っています。
さらに、教室内の整理整頓やゴミを拾うなどの簡単な掃除、服の着替え、靴紐を結べるようになるための練習をしたりなど、身の回りのことは自分たちでやるという教育もしています。
お手伝いさんの文化があるインドでは、小さい頃から身の回りのことはどんなことでもやってもらえるので、手伝ってもらって当たり前、やってもらって当たり前という認識をしてしまう子どもたちが出てきてしまいます。
ですので、自分のことは自分ですることが当たり前という価値観を、小さい頃からしっかり教育していきたいと考えています。

情操教育の大切さを伝えたい
Japan International Academyでは、音楽教育にもより力を入れたいと思っています。小さい頃からいい音に触れたり、楽器や音楽に親しむという経験は心を豊かにすると考えているためです。
園ではピアニストやバイオリニストを招いて、子供たち向けにミニコンサートも開催したいと思っています。私自身がピアノを弾くことがすごく好きで、クラシック音楽が大好きです。ですので、クラシック音楽も活用していくつもりです。
また、「動物に愛情を持ち、ふれあいながら生活する」というのも大きな特徴です。インドでは、野良犬がたくさんおり、犬は危険な動物という認識を持っている人が多いですが、園に連れてくる犬は私自身が飼っている犬で、アメリカでセラピー犬としての認定を受けています。モルモットやインコもいますよ。
小さい頃から動物たちのいる環境に慣れ親しむことで、自然を愛する心、優しい心、小さく弱いものを大切にする気持ちを育み、そして命の尊さを感じてほしいなと思っています。そして、インターならではのグローバル教育も行っていきます。幼少期から様々な文化や思想に触れるというのは貴重な経験です。
手作りの教材や、英語の勉強にもなるユニークな知育玩具も活用していきますし、外部講師を招いてのトークイベントも開催します。
海外就職を目指す日本人女性へメッセージ
―海外就職を目指している日本の女性たちにメッセージをいただけませんか。
まずは固定概念にとらわれず、一度来てみてください。人間って、順応性が意外とあるものですよ。自分の世界を開くのに、年齢は関係ありません。ぜひ世界を見て、どんどんチャレンジしていってほしいです。
私も子供ができてから、約8年間はずっと専業主婦をしていました。その時は「このままでいいのかな?」と考えることもあったり。新たなビジネスに挑戦することにたいしても、インドという環境がゆえ、すごく大変なこともありました。
でも今回、新たにビジネスに関わることにより、人脈が広がり、今は毎日、日々人に支えられていることを実感しています。仕事は、自分の生活を豊かにしてくれました。私は本当に周りのメンバーに支えられて、今ここにいます。まだまだ始まったばかりですが、感謝の気持ちを忘れず、初心を大切にコツコツ頑張っていきたいです。
皆さんの一歩も、応援しております。頑張ってください!
―知華子さん、本日はお忙しい中ありがとうございました!
編集後記
2017年4月、まさにオープンと同時期にこの記事の取材を依頼し、大変お忙しい中インタビューにお答えいただきました。
「ニューヨークで働いていた」という事前情報をもらっていたので、すごくテキパキした厳しい方だったらどうしよう…という勝手なイメージとは裏腹に、すごくチャーミングにいろいろなことを語ってくださった知華子さん。
一見華やかにうつる海外経験の裏には、知華子さんの並々ならぬ努力が隠れているのだなとインタビューを通じて思いました。専業主婦の時期を経て、新しいスタートをきった知華子さん。「周りの人に感謝して一歩ずつ頑張りたい」という知華子さんの姿勢が、さまざまな縁を呼び寄せ、知華子さんの人生を豊かにしていくのだと思いました!
